就職氷河期

私の大学卒業は昭和51年。オイルショックのまっただ中で、前年まであった就職先は皆無。公務員の採用はゼロ。県警採用一人。県内の企業採用もほとんどゼロ。三谷商事が二人。最終面接では京大など13人が残った。当時 大学院に進む連中もたくさんいた。私は地元に帰るということもあり、農協に勤めた。農協は5年務めた。しかし これが運命かもしれない。地元に帰って青年団に入り、農協の集金で地元の人と顔見知りになる。今思うと 市会議員に出れる状況は偶然に作り上げられることになる。当時の社会は今日ほどの閉塞感・悲壮感はなかった。

市議会時代にも景気の悪く就職難の時代があった。当時の市長に「景気の悪い時ほど公共は採用ゼロにするのではなく、若い人を採用すべきだ」と私の経験から申し上げた。市長は採用しすぎるほど、たくさん採用した。県議会に上がった頃はバブル崩壊で景気は悪く就職も厳しかった。リストラの時代で「家庭の大黒柱の勤め先があるようにしないといけない」と申し上げたこともある。産業連関表を基に介護施設の増設と雇用を訴えた。そんな時代に始まったので今も介護施設の給料は安い。そして 就職氷河期。大学を出て就職がないと言うほどみじめなものはない。当時 臨時雇用制度があったのでそれを就職の決まらない学生に適用して半年雇用するよう県に働きかけた。半年たてば次の年の就職が始まる。それを県が実行してくれて、あくる年から全国版の政策になった。その時代に人材派遣会社ができている。若者を食い物にしているようにしか思えない。その氷河期が引きこもりを生み、結婚もできない若者をつくった。当時 リストラ経営をする会社ばかりで内部留保を積み上げ、世界とは戦うことができない国になってしまった。

有効求人倍率対策が2年ほど前に出され、県から説明を受けた。「就職氷河期の時代の人に光を当てるべきだ」と申し上げた。今 就職氷河期世代に対する支援が言われ始めた。我々は若者に希望がある社会を提供しなければいけないが、人口減少・少子高齢化 右肩下がりの社会の中では極めて難しい。若い人の能力は高い。社会は若者にもっと寛容にならなければいけない。若者がチャレンジできる環境を整えて、新しいものを生み出すことが、若い人が都会に出ていってしまう福井県の役割かもしれない。どうしたらいいであろうか?持っている資源を使って人材を確保する。現実の課題に対処する中で今日までの技術を存続し、文化を伝える仕組みの中で若い人を育てる。農林業や伝統産業の技術にはその可能性がある。観光も一つである。県立大学も県内に若い人が残るよう定員拡大を図っている。現実の課題と向き合える若者集団の場が必要かもしれない。 金龍

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